9日10日と七ヶ浜の支援にメンバーのバンをかりて、早朝5時に出発し、西那須塩原ICから東北自動車道を北上し、仙台南、仙台東高速道路へとまわり、海岸線を北上した。仙台東に入ると、海岸側と山側の景色がまるっきり違うのにはビックリした。
高速道路が防波堤になり、海岸側は、たびたび被災中継に出てくる景色が広大に広がっていた。
多賀城市内に入ると、被害が明らかとなり、道路わきには、車が転がるようにあり、中には重いタンクローリーまで転がっていた。はじめて見る異様な雰囲気であった。
知合いの案内で、小浜港まで下りた。津波の傷あとが生々しく残るが、それでも道路だけは、20トンクレーンを入れて、綺麗にしてあり、港の作業基地まで、難なく行くことができた。
ヨット仲間が被災し、小浜ヨットハーバーが壊滅状態で、毎日1トン近い水をかき出している船がある。との連絡。早速水中ポンプと発電機を送り、アンカーやロープをそろえ、出かけた。
あれから1ヶ月もたっているので、小浜のヨットたちはずいぶんと助けられ、整然とアンカリングされていた。たいんな努力だったと思う。しかし、魚網がからんで、難しいものや重機の入らないところのものなど、救助できないものあった。
ここまで、たった二人でやったというから、驚きである。
先に送った水中ポンプのお陰で、助け上げられた船も見てきた。
ハーバーの南側の防波堤が破壊されていて、大波がもろに入る状態で、今後夏場の台風などどうしのぐかと大量のアンカー作りがされていた。
もともとこの港は雑用港(避難港)で宮城県外帆走協会が借りて使っているという状況で、港の復興工事は、相当後回しではないかと心配していた。
現在道路がやっと開いて、走行できる状態になったが、瓦礫の始末はまだまだで、行方不明者の捜査や、瓦礫の片付けなどこれからされるのだろう。仮設住宅は強く望まれていたが、場所がなく、まず100戸ぐらい予定されているが500戸ぐらい必要ではないかと言っていた。
さいごに港を引き上げて、預ってきた醤油、味噌、梅干の物資を避難所となりの物資センターを案内してもらい届けた。物資センターの体育館のようなところは、いろいろな物資が一杯で、持っていったわずかばかりの物資が恥ずかしい感じでしたが快く受取っていただいた。
自転車とか長靴などあったが、残念ながら支給されず、なぜか山積になっていた。
どうも、聞くところによると、配給の仕方がまずいらしい。
最初の頃は「カップヌードル禁止令」などおかしな制限が出されたそうで、公平と言うモンスターがはびこったようだ。せっかっく持っていった物資だから、積み上げず、即日にでも配給して欲しいものだ。そうじゃないと支援してくれたみんなの気持ちが伝わらない。
津波の力はすごいもので、被災現場を見ると十分想像できる。建物は1階の壁は、ぶち抜けているか、基礎から引き抜かれて、あるいは基礎まで破壊されて、跡形もなくなっていました。
基礎を高く作って油断して灌水する程度と考えた夫婦が、地震後のかたずけを1階でやっていたそうだが、2階へ逃げる暇もなく、1階でなくなっていたという話を聞くと、津波は何があっても逃げることが大事と痛感する。